連日バイトの合間に、善林ひろみ裂織創作展の展示計画。パネル作成にうなりつつ取り掛かる。今回はこの展示プロデュースが私の作品、という位置づけです(注・善林ひろみは私の実の母)。

「裂織」って言っても、殆どの人が知らないものね。その説明で客対応が終わってもと思うので、書いて表示したほうがいいかなと。織物自体がどういうふうに作られているかなんて、一般的には知られては居ない。

今や食べものも衣服も、工場で作られて大量に売られて当たり前のもの、です。ほんの100年ほど前までは女達が頭を悩ませながら日々、家族のものを作って用意していた・・という事も予想もできない世の中なんだろうな。

私の母が織物を始めたのは子育てが一区切りして、趣味で何かしたいな~と先生を探した時から。 たまたま 福知山で丹波木綿を織っていた河口先生に出会った。何で織物だったかというと、父の仕事の関係で農場に住んでて羊の毛が手に入ったんで、 ホームスパンを習ってそれを利用しようとしたらしい。

しかし習おうと思ったけど、当時は1970年代。そんな洋風のモダンなことを教えてくれる人は、住んでいる丹波町(今は京丹波、京都府中部)から通える範囲におらず。新聞に小さく河口先生の話が出てて、それをたよりに訪ねて織を教えて貰える事に。織は織でも和風の木綿の世界。

今ネットで検索しても本以外の情報出ませんが、当時河口三千子先生は丹後エリアでは有名な人でした。お寺の方なのでその仕事で日々忙しくされながら、木綿を織りつつ新聞の連載をしたり、後年は大学で教えたり地域おこしの相談で黒谷和紙や裂織の指導したり。母経由の先生の噂話を聞いて育った私。

織を教えてもらうといっても、基本見て覚える世界です。学校じゃないから、勝手に各自が模索してやりかたを掴み取っていくしかない。沢山の人が河口先生の元を訪れたそうですが、殆ど織を続ける人は居なかったようです。

母の仕事見てて思ったんですが、趣味であってもよっぽど好きじゃないと織の仕事って出来ませんわ。とにかく我慢強くないと。ずっと見て育ったから、私はやる気には全くなりませんでしたよ。。

河口先生の噂話だったらいくらでも記述できますが(笑)、良く覚えて居るのは先生の卓越したセンス。母が織り始めの頃、勉強のためにと福知山市展(公募展)に出品してたんですが、展示会場に入るとパッと審査員である先生の参考作品が真っ先に目に入る。小学生の目にもワンランク上の作品は違って見えた。木綿の織布は田舎くさくなりやすいんですよ、でも全く違う。それを良く覚えています。

河口先生は、本当は医者になりたかったけど戦争で叶わず。
そういう才女だったから、文章も上手い。「なくなるから」ということで、丹波弁で新聞連載されていた記事は、まとめられて本になってます。アイキャッチ画像の本「生活衣つれづれ」二巻ですが、これを読むと織が生活の中にあった時代の女性がどういうふうだったかが分かる。

河口先生は織の資料にと、木綿を中心とした庶民の布物の収集をされてたのですが、全部福知山市に寄付。これを中心にして今、福知山に「丹波生活衣館」という民族資料館があります。ここで、この二冊は購入。レア本です。

ここの布コレクション、凄いですよ。要するに作家のネタ帖ですよ。漫然と集めたわけじゃなく、河口先生の目を通して選ばれてる。福知山は文化度の高いところですが、昔の庶民の美的センスというものを感じることができる。

日々地に足ついたところから、新しい物を生み出していく仕事をしていた河口三千子先生。見習わなければな、と思うのでした。