本日参加の公開講話から。
ピックアップで自分のための備忘録ノート。

よく「整体」というが、からだが整うとはどういうことか?

現代の医学で扱われる「からだ」は、知識から作り出された観念による身体感であり、定量化されたもの。

現代科学(医学も)は元々は「神」の法があってこそ成り立つ世界であったが、それが唯物論に取って代わり、もはや何が正しいのかわけが分からないものになった。唯物論によって、からだというものは捉えられない。

からだというものは、自ら治癒するものであり、また、自ら壊そうという働きもするものでもある。

親の「死」(注・野口晴哉のこと)というものによって、大きなものをうけついだが、連綿と続いてきた「死にざま」という教育の場が決定的に奪われているのが現代である。

信仰の自由などというものが謳われ、現代日本は自由が憲法の上で保証されているように見えて、実はまるっきり嘘である。自然死は事実上許されず、病院で(国家に管理されて)死ななければ遺族は自殺幇助とされるのが現実である。もはや現代は自宅の畳の上で死ぬこともかなわぬ時代になったのだ。

「こころ」はどこにある?

かつて明治まではこころは、丹田にあった。だから、ハラキリをして「まこと」の証明をしてみせた。昭和までの「こころ」はむねにあり、現代は「頭」にある。はたして「こころ」はどこにあるのだろうか。

物質としてからだをとらえる混乱を極める現代の分裂(異化状態)から、自分の身体を取り戻す同化の訓練をしていくしかない。

異化というのは、刺激→反応の物質的な世界である。身体に触れられても、そこから拡散していく動きしかない。
同化というのは、遠方からその場所にゆっくりと集まってくる動きである。

面白いのは、すでに意味を奪われた古語が、直接からだに感覚を発動する音声となるという事実。

赤ちゃんが意味を獲得する前に、ことばそのものの響きから感覚を受け取るように、もはや我々が本来の意味を忘れてしまった単語が、からだそのものに音として響いてくる。

普段まったく意識せず、生きていても、音の響きで、からだは反応する。

あたかも古代を生きる身体の層が、誰も彼もの中の奥深くに眠っていて、何かの拍子にひょいと顔を覗かせるように、出てくるのだ。

方言というものの持つ力も、同じものがあって、強い。

明治より150年。完全に滅び去ったかのように見える日本文化というものは、多分ここにある。