先週土曜、29日に行って参りました福知山。実はず~っと前から知りつつもなかなか行けず・・・で気になっていた、丹波生活衣館。つい最近も福知山陸上自衛隊演習場にて実弾演習強行開始されたりとか、ちょっと不穏な感じもするエリアなのですが、思い立ったが吉日。ということで。

丹波生活衣館は福知山市営の施設で、入館は無料。昔福知山の各家庭で自家用の着物作成として当たり前に行われていた、丹波木綿について多方面から伝える資料館です。昔の実際の服資料展示から、綿花から綿をとり、糸紡ぎをして機織りを実際に体験できるブースまで、小さいながらも充実した内容。

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なぜここにわざわざ行きたかったというと。ここの資料館の母体となった昔の着物を中心とする膨大な染織品は、我が母の織の師匠、河口三千子先生がコツコツと半生をかけて集めた資料。トップレベルの作家には、自身の美観を養う為の専門分野のコレクションはよくあるものですが、その類のものです。

木綿の作家であった河口三千子先生。織の分野の中でも木綿・麻は何倍も手間がかかる割には絹のように華やかさがなく、晴着にはならないことから彼女の名前を知る人は少ないと思います。幸運にも福知山市展にて幼少時何度か作品を見せていただく機会があったのですが、こどもにも分かるんですよ。ずらっと並んだ工芸分野の展示会場、入って真っ先に目が吸い寄せられる魅力的な作品だと思ったら、間違いなく河口先生の作品。

河口先生は元々は医者を目指していた才女だったけれど、戦争で叶わず。寺を継ぎ、縁あってその頃でも地元では誰もやらなくなって来ていた木綿を紡いで布を織ることを始めます。元々美しい物が好きでらっしゃったのだと思いますが、地元の古道具屋で昔の染織品を見つけては買いあさり、そんな「襤褸」どうするねん、と良く言われたという話は晩年に地元新聞にて連載されていた記事(が本にまとめてある)にて拝読。

10年ほど前に鬼籍に入られているので今噂されることもあまり無いと思いますが、母が織を習いに福知山に通っていた3~40年前、すでに地元では有名な方でした。確か日本工芸会会員としての作品作りの他に、地元の村おこし協力で黒谷和紙を使った紙布織・裂き織の研究、勿論おうちのお寺の年中行事の運営、民生委員として50年(!)の活動、その合間に新聞連載執筆、晩年は地元福知山の大学にて教鞭を取られていた・・とにかく凄い方です。

どんなコレクションをされていたのか私は存じ上げず、あまりの量に大学の学生たちがその分類作業をしていたという噂だけ母から聞いておりましたが、凄く気になっていたのです。河口先生曰く木綿は最初は長着で着て、痛んだら羽織(または半纏)になり、と何度も仕立て直され最終は雑巾になって使い尽くされるので、とにかく残らない。今残しておかないと全く資料はなくなってしまう。ということで、傍からゴミ?と言われても黙々と収集されたそうです。

しかし、そのチョイスにあの美観が生かされていない訳は無い・・見に言ってみて、予感的中。いやはや、名も無き職人たちの仕事、すごいです。

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この紋紙!やっぱり手で切ってるからこそ、の味わいですな。

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所謂「大風呂敷」ですが、この筒がきが凄い。ろうけつ染めだろうけど、「丸に三」って・・なかなか思いつかんわな。この、意匠の力強さ。

量産前提の世界を構築して、我々は何を失ったのか?

今、私自身「働ける衣服」というものが気になっていて、農作業前提の日々の生活に使われていた自家用手作りの染織品ってどんなものなんやろ?と思っていたのです。今、着物着て生活しようと思うと、やっぱり不便(特に女性は)。着脱が大変なもの、着てられないし・・

行って見ると今展示の内容はテーマが「紋」だったので、この疑問に直接答えになるものは展示室に無かったのですが、いろいろ前々の展示の資料本など見せて頂けました。丁度、当日午後にミニWS開催でそちらの客に間違われたので母が弟子だった旨申し上げると、なんと受付の方が母の名を覚えておられてビックリ。なんだ、お越しになるのなら予告して頂いたら~~と言われたのですが、イヤイヤ、思いつきで来てしまったのですよ。

ということで前置きの内容で長文になったので、続きは明日。