違うこと書こうと思ってたんだけど・・
今、あからさまに「スタンダード」とされていた前提が崩壊しつつあるように、思う。
例えば「科学的に証明されているから、正しい」。な~んてことも、ある意味では意識せずに刷り込まれた「前提」であったと思う。が、所詮ここ100年くらいの価値観である。
10年位前からたま~に友人たちと「科学教」と密かによんでいるが、データがあるからといって主張が正しいという手法も結構なかなか難しいものがある。
もともと、科学という手法は「最初に結論ありき」。導きたい結論があって、それの正当性を証明する為に証拠である「データ」を集めるのだ。
たまたま自分の親が科学者だったので聞いたのだが、それを知って居るのは世の中のどれくらいの人であろうか?
闇雲に「科学的だから」と言われれば信用してしまう・・それって恐ろしいことだと思う。
それに証明の論拠である「客観的データ」なるものは本当は無い(ある導きたい結論があってデータを集めると、どうしてもそこに連なるデータが集まる)、と科学者自身が証明している論があるらしいよ、とか聞いたりすると、何が正しいのかサッパリ分からなくなってくる。
そこで、今現在の私たちは指標を失い、膨大な情報の渦に茫洋と漂う(笑)という形になるのである。
私たちは、どうなりたいんだろう?
というところから考えるしかないような気がするが、
そもそも私は、どうなりたいんだろう?っていうのを絞り込むのが、今凄く難しい。見本が無いのだ。
では、前世代が目指したのは何だったのだろう。
都会の人間関係に象徴されるように煩わしい人間関係(地域の付き合い)を避けて便利さだけを追求してきたら、足元のコミュニティそのものが崩壊しそうな状況。50年前、人々がキラキラ目を輝かせて目指した「近代的な開けた社会」って、今の状況のようでは無かっただろう・・やってみたら予想もしない世の中になったのだ。
ふと気がつけば、子どもの存在を否定する社会。になってしまった。実際、私が子どもを持った時に我が親は否定的な反応をした。逆にそれにビックリしたのだが、一般的といえば一般的。ではある、今の日本の状況を見回してみれば。
自分が子どもの時は、「晴れてたら家の外で遊ぶ」が当たり前であった。が、今外で子どもがいられる場所って本当に数すくない。数十年かけて、子どもがそこらへんに居られないような社会を作ってきたのだ。何故そうなったのだろう?
無理やりまとめると、やっぱり永続する社会という視点が丸ごと失われていたからではないか?
引き継いでいく、という視点があれば、今だけの便利さを求めるというあり方は選択出来なくなるのだ。
自分自身のこどものあるなし、は関係ない。
いろんな人がいろんな事を言っていて、まぁ振り回されそうな御時勢である。
感覚で選ぶのが一番行くべき所に近くなるのかな・・よく感覚は間違わない、判断が間違うのだ。って言うよね。
地震の時に、サッと察知して移動できる獣のような、生き物としての原始的な感覚を磨きたい。
忙しがって目をそらさずに、今はゼロからスタートする時期なのだから、じっくりといろいろな問題に向き合っていきたいと思っている。
コメントを残す