先月は久しぶりに、宇多野の公開講座に行って参りました。先月は何だか行く気がしなかったので、実に2ヶ月ぶり。相変わらず面白かったです。まぁ講座は長い雑談といえばそうなのですが、連続して講義受けていてやっと何となく概要が見えてきたような気がする。多分言いたいことは一つなのですが、色んな方向性から攻めているといった感じ。

今回は錐体路系と錐体外路系の違いを中心に話が展開。

錐体路とは、身体を意識的(自覚的)に動かす運動に関するもの。具体的には頭で考えて腕を動かす、とかですね。錐体街路とはそれ以外、無自覚の運動です。呼吸とかが該当するのかな(詳しくはネットで調べてね)。

よく言われるのは覚醒時は錐体路系が働き、睡眠時は錐体外路系が働くというもの。でも本当は覚醒時も錐体外路系は働いている。

日本人の本来の動き、感覚というものは完全に錐体外路系に基づくものらしい。が、それは明治維新後の「政策」によって全て失われてしまった。伝統芸能とかの世界でもそうらしい。だから、見本にできる日本人は居ない。それは、個々人が自分自身の身体の中からもう見つけ出すしかないのだ。

ということで、野口先生が唱える「内観」というものが出てくる。

そこで問題になる身体であるが、整体協会がいう「整体」は錐体路系、錐体外路系両方を内包するもの。

よく言う、正常・健康・悟り・清め・・・という身体観とは全く違ったものである。

これらは「完成された理想形」があるという前提がある。異質な物を排除する事によって調和した完成形を目指すというもの。正常に対する異常があり、健康に対する不健康がある。ここで働くのは、排除の論理。実はメゾットをふりかざすナチュラリー系のボディワークもやっていることは同じ。

ある規範のなかにはまらないものは、異常とされ排除される。それを無くせば理想の身体になると考えている。

しかし、オーケストラを例にすると素晴らしい楽団を作ろうといくらメンバーを入れ替えても、何故か必ず3人の下手な演奏者が存在してしまうらしい。ということは、この3人が集団の調和を取るために存在していると考えられるのでは・・?という視点。

もともと、単独で存在する理想の形があるという考え方自体が間違っているのではないか。

この実にアカデミックな西洋化された身体観から、本来の失われた身体性を取り戻すにはどうしたらいいのか。

それは、「意思」の自粛。
言い換えれば錐体路系の動きを抑制していくというもの。ここを目指したのは日本人だけである。

それを証明する動きの実習・・ナカナカおもしろかったです。

忘れんように、日々やらないと。と思ったのでした。