前回の続きの話。
最近は「坊主カフェ・おやこで寺子屋開催」に向けて、とにかく乱読。
鷲田清一センセ監修の「哲学カフェのつくりかた」読みかけてみると、どうも哲学カフェの任意団体「カフェフィロ」というのがあるらしいというのが分かった。今活動やってるのかいな・・と思って検索してみたら、京都では9/1(土)に哲学カフェ開催とあるではないか!
渡りに舟や。
・・ということで、早速どんなもんなんだか~と行ってみました。体験するのが一番早いと思って。
今回は、「まさか」がテーマ。丁度9/1って防災の日らしい。関東大震災の日だったっけ・・?
参加は司会の方含め7名の会でした(内、3名が哲学カフェ初参加)。最初に、司会の方から以下の説明が。
・いつもよりゆっくり考えよう
・話すより質問する 聞く
・「わからない」を大事にしよう
・「人それぞれ」から一歩踏み出そう
自己紹介無し(言いたければどうぞ)、指名して発言強要することは無いので、ずっと聞いているだけもOK。
という導入の話を10分ほど聞いてからスタート。
最初、「まさか」は良くないことが起こった時に使う言葉なのか?という概念に妙にこだわっている方が居られてどうなることやら、と思ったのですがそれなりに話は展開して行き。
(ラッキー「まさか」の事例が面白かった)
なんやかや話をしていると、どうも「まさか」というのは「無意識で前提としている概念」を壊される現象が起こった時にいう言葉なのかな?
というところに流れ着き。
所謂「想定外」ですね。天災とか、事故とか。そういう時に「まさか」という言葉、良く使うよね。
そうか~~ いつも不測の事態に備えてスキの無い毎日送ってると、疲れるしな。
今日と明日は同じ日常。・・という前提の中を我々は生きて居るのかも。(本当は今すぐ東海トラフ地震起こってもおかしくないのだが)
とか言っている間に、2時間経過。
これで終わってもいいのだが、残り15分でお土産替りに「問いを作る作業」をしてみましょう。という司会者の呼びかけで、まとめをする作業が面白かった。
哲学カフェは成果を出すのが目的の会ではないのですが、あきらかに「場」で話しすることの意味ってあるなと私は感じました。
事例の当事者でない人が数名居る中で、「例えば」の話をしてみる(実際に自分に起こった事ね)。そうすると、不思議に客観化されるというか。
過去の記憶(思い出)って、起こった事を実は自分に都合のよいストーリー化して再認識・記憶している、という話をどこかで聞いた事があるが、そういうところと別のところにいけるというか。
面白い。
物事を考える時に、目の前に「他者」が居る意味。に少し近づけたような・・
これ、ネット(SNS・FBとかLINEとか)でもできるじゃんと思い勝ちですが、全然違うわ。リアルに居るっているのがキモやな。とも思いましたわ。
「聞く」体勢の人が、その場に居る。しかも複数。
って結構凄い事かも。
昔はしがらみが付随していたかもしれないが、地域のコミュニティの中の人間関係がそういう「場」を周辺に作り出してたけど、今は消滅してる。
そこから、いろんな問題が発生している気が・・要するに、我々は一人では生きていけないのだ。
コミュニティ無いんだから、今の社会のスタイルに合ったものを作り出さんとあかんわ。そういうところに向けたアクションに繋がるのかな(坊主カフェ)と思ったのでした。
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