前回の続き。いや~ どうも政治がらみの話題って、記述NGワードが多くて困る。なんでや。

小学校高学年用の教科書で「我々は自分達の意見をとりまとめ、行政機関に持っていき、日々の暮らしをよりよく変えて行く事が出来る。」と明言して実際にワークをするらしいスウェーデンとはえらい違いや。。(詳細「スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む」記載。単純に真似がいいと思ってるわけでもないが)

パブリックの概念を多分、持ち合わせていない私達。

今後も多分、持た無さそうな予感がなんとな~く私はしているのだ。

「街」である京都市中に住んでいる実感から「地域」をイメージしてみると、必要なのかどうか良くわからん回覧板を回したり、持ち回りの役やったりである。我が家のように自治会入れない設定だと(独身向けのアパートぐらしゆえ建物ごと入っていない)、完全に蚊帳の外。

名物の地蔵盆に参加出来ない娘にはチョイ気の毒ではあるが、どうせ食べれない(正確には与えたくない)添加物山盛りの御菓子を貰わざるを得ないところから逸脱出来るので、実に微妙な気分。元々仏教徒でもないし、その文化の中で育ってない余所者なので、残念感がない。

子持ちでも実際は、このように慣習込の隣近所と関り皆無で生活出来てしまう。これを良いとするのか否か。。 同じ所に7年住んでいるのであるが、 本当にお隣さんと遭遇しない!んですよ。驚くほど。

しかし好奇心から上京の地域おこし系の寄り合いには、割と顔を出す私。何故かザ・京都人と繋がらせていただいていたりとか。我乍ら変ですな。。

多分、これからは「レイアー」の時代なんだろうな。

いろんなモードのつながりのネットワークが、同じ空間に層のように偏在していて、各自が自分好みでチョイスする。

伝統的・因習的なありかたしか見えない人は、その中に居て苦しむかもしれないし。
全く見えない人は、他の人との繋がりをつくれなくて孤独な人生を送るのだろうし。

沢山のネットワークを重ねて、その人オリジナルの絵を描く。
そうなっていくのだろう。

沢山重ねるほど、個性的になるというか。実際の画像では起こらないが、細部の解像度も上がるイメージかな。

なんか、そういうものを、なんとな~くボンヤリと今思った。

結局、各自が何を佳しとするか、美しいと思うかだな。

たまたま同じ空間・時間を過ごしていても、多分、同じプラットフォームに居なければ、情報を全く受け取らない人は受け取らないのだろうし。

だから、かえって、全員に向けて語りかける必要はないのだ。

同じ美観の人は、多分これからは凄い勢いで簡単に繋がっていく。

政治や社会を語る時でも、もう警告なんかは必要ない。
具体的にこれから自分は何が出来そうで、どういう生活がしたいとイメージしていて、どういう情報・助けを求めているか。

具体的に、語る。

今集まって来ている、一緒に何かしようとしている仲間を相手に、路上で、公開ライブのように「未来の私」をお互いに思い描くこと。

要するに、そういう対話をすればいいのだ。

そうすれば、その言葉は、現実化する。