昨日、久々にダン先生の公開講話に参加(先月は日曜だったので不参加。娘居るし)。今回は「全体を働きとして捉える」がテーマであった。丁度、同調圧力とか日本独特の社会のありかたに関して考えていたところだったので、良いタイミング。

ここのところ、全世界の変貌のスピードは加速している。

次世代へ引き継げる社会への転換が、政治主導であちこちで起きてますね。朝鮮半島の38度線分断撤廃への合意と監視施設除去はバタバタと決まって驚いた。そして韓国ではソウル全市の小中校給食の無償化・オーガニック比率100%への2021年までの転換を決めたし、原発大国のフランスも一部原子炉を廃炉にすることを決定。今を継続できないことは分かりきってるんだから、具体的目標を決定して動き始めている。

こういうところから考えると、どうも日本の動き(特に政治的なものとか)は謎な方向性だ。もう終わってしまった旧時代原理でまだやっているようにしか見えない。今政府主導で行っているプロサバンナ計画はブラジルやアフリカで自給的な地域社会そのものを破壊、大豆生産をしようとしているのとか、まるで原発推進のときのやりかたとそっくりだ。

わざと地域を分断させ、資本家が甘い汁を吸う支配社会にいつのまにか組み込ませてしまう。この仕掛けはいったいどこから来たのだろう?

これが、今凄い気になっている。。これって、せいぜい100年くらいのありかただ。結局誰も幸せになって居ない。資本家の立場を成功者としてみるような風潮があるが、よっぽど気をつけないと孤独感に苛まれて大変そうなポジションだなと思う(あくまで私の中のイメージ)。

もう、こういう構造自体が破綻してるんだし、次のあり方に向けて動こうや。

と思う。

ここで、日本の「近代」の価値観というものの再評価が必要な気がする。

なんかさ、、「欧米」という謎の憧れのあり方みたいなのを作って、それになろうとしたというか。それが、上記の変な支配構造の仕掛けと連動しているような気がするんだよね。「科学主義」というか「拝金主義」というか。数値化したものであらゆるものを捉えようとしたのが、凄い無理があるような。

元々、日本人のありかたというのは独立した「自我」というものを持たない。これはもう欧州の人の「個」から始まるありかたとは全く違う世界で、非常に特殊なんだよね。

我々日本人は常に中心に「非自我」をおく、そこから「型」の教育という形で継承されてきた文化だそうだ(ダン先生によると)。

・・とすると、対立する「個」としての自我の形成から「集団のありかた」を作ってきた欧州のような社会形成って、そもそも無理っぽくないか?と思う。チョッと前に「スエーデンの小学校社会科の教科書を読む」という本を読んだが、もう人としての社会へのあり方自体がまるっきり違う。元々我々の中に、そういう感覚は無いのだ。。

不思議に「我々」、という「共同性」のようなものを感覚として持つ日本人。オリジナルの近代的なありかたを作り上げたかったが、微妙に近代科学というものに取り付かれて大事な全体性を失って今バラバラ、といった感じ。

70年前に積み残した課題が、今どっと押し寄せているような気が。

とにかく、今自分が「佳し」と感じるところをやっていくしか、あるまい。。という結論になるのだが。皆さんはどうであろうか。