いつも使っているデスクトップパソコンが、昨日朝、ついに電源が入らなくなったので作者の元へ入院。
まぁ2~3日で帰って来ると思うが、いろいろ不便。今の記事は懐かしのXPで書いているが、ちょっとしたことで固まるので(汗)朝、どうにもこうにもUP出来ず今やっと再ログイン。
昨日は大原の話題の続きを書こうと思っていたのだが、画像が今扱えない状態なので、ゴメン、ちょっと先ですね。

実は書き忘れていたのだが今度の日曜(11/22)の上賀茂手作り市、抽選当たったので出店します(263ブース)。
この話題は明日にすることにして、今、どうも政治がきな臭い方向に向っているのがどうも気持ち悪くて仕方が無い。

昨年オンラインビジネス講座をびっしり取っていた関係で受講生のFBグループ(非公開)にいくつか参加しているが、その中に思いっきり戦争しかけるのを容認系の投稿(自由は血によって勝ち取られるとな!)があって、オイオイと思った(名前を見るに、西洋の方っぽい)。

ただ、その意見には反対ですと書き込むのもな~(芸が無いし)・・とここ数日考えていたのだが、今の状況は、2001.9.11の同時多発テロ後のイラク戦争が始まる直前の状況にそっくりだと思いませんか?

当時超極右に世相がゆれるアメリカにあって、即、軍事攻撃に向う意見に「否」と声明を上げたエドワード・サイードのことが思い出されてならない。勿論、文字通り後ろから銃撃されるのを覚悟しての発言である。
本当の自由に対する戦いとは、彼が行ったことのようなもののことを言うのだ。

何新聞(朝日?)だったか忘れたが、彼が大江健三郎との往復書簡の形でこの問題を論じていたのを当時読んで、目を開かれる思いがしたのを思い出す。よく考えたら、我々はイスラームのことを本当に知っているだろうか?

イスラームの問題について知りたいのなら、エドワード・サイードの著作は今一番お勧めしたい本である(どんな人かは、グーグル先生に聞いてね)。

当時と違い今はインターネットが一般に普及し、一般の人でもネット発信がたやすくできる時代。
本当に一般的なフランスの皆さんは、血塗られた報復を望んでいるのだろうか?
テロを行ったか分からない、まさしく同じ様に日々をつつましく生きている人たちの上に一斉攻撃を突然することが、今回のパリのテロの犠牲になった人の弔いとなると思うのか。

それを自由に生命の危機を感じず発言することが出来る世相こそ、「自由」なのではないか。

問題の解決につながらない軍事行動など、前時代的なものである。

我々は個人でも発言できるツールというものを手にしたのだ、知性に根ざした行動を期待している。