久しぶりに直イベントの宣伝でない、だらだら記述(苦笑)。客注の型起こしせんならんと、なのではあるがこういう1時間とか2時間とかは実に中途半端で使いにくい。。子ども居るとリミット決まってるから、困ったモンである。

今日はいのち作戦会議だったので、午前明倫へ。帰りがけにめっちゃ渋い昔ながらの店で畳紙買って、FBつながりの人がぞろぞろ報告している京都新聞社の地下へ。京都グラフィーもあと3日、なんとか滑り込みセーフで展示を見る。

今回の京都グラフィー、全体に社会問題提起型の内容が多くかなり内容濃いという噂だったが、こちらの作品もまさにそう。性教育をテーマにこれからどういうアクションをしていくか、の会議の後に、近年女性達が作られた「性のヒエラルキー」に飲み込まれて知らないうちに消費社会に加担していったというテーマ表現なんかを見ちゃうと、かなりグッと来ますよね。。

今ほど「豊かさ」とは何か、が問われる時代もあるまい。

贅沢そうなものに囲まれて、本人は気がついてなさそうだが実にしんどそうなギラギラの顔で被写体になる人々。

何だかな~

美しさとは対極にあるな。

もう、いろいろ曝け出されちゃってるけど、実のところ奥の奥のところには触れられない感じ。もするのですよ。メディアとしては有力だが、そこから次の表現段階に行くのが写真って大変だな~とも思った。多分作ってる本人が一番感じてるだろう。そういや、原サン(デビュー作完全裏方で私、制作をかつて手伝った原久路氏)も同じようなこと言ってたな~

一見生々しそうに見えるけど、写真での表現で前に出てくるものって結構感触が皆同じような印象なのよね。なんでだろ?

手で触れたり、そういうところから把握できる「感覚」ではなく、基本言説必須で頭の中で組み立てて入ってくるものだから、だろうか。。写真ってマテリアルがあんましないから?なのかな。良く分からんが。

そして・・・今ほど手触り(文字通り、触れて初めて感じ取れる世界)に触れる機会が少ない時代も無いかもね。皆「頭」でものごとを捉えようとしすぎな感じがする。

私たち中年世代は、まだ幼少時に周辺に「気が遠くなるような手間をかけて大元から作ってる」という現場を見て育つ環境にあったから、画像を見ても過去の経験と重ね合わせて立体的に自分の中でものごとを感じてるとも思うけど、30歳代以下の人はどうなのかな・・・。

この異常な情報の渦の中にあって、その「質感」によって、それが物であれ、情報であれ、自分にとって必要な物かどうかを空間的に瞬時に判断できる状況にあるだろうか。

そういう「体験の無さ」に、今私は危機感を感じている。

個人作家なのに、なんだか身体教育(野口整体)のイベントやったり、性教育のプロジェクトに関わって映像記録もろもろを異常なくらい時間費やして協力したり、ブログでローカル情報流したり・・だが、結局全部やってることは同じだなとも思う。

「生」で心惹かれるものと触れ合うことこそが、ほんものに辿り着ける唯一の道。

そして、時間もお金も労力も費やさなければ。本物は蛙になっちゃって、その真実を明かしてくれないモンですよ(青山二郎じゃないけど)。

自分から脚を棒にして動かなければ、決して手に入らないものがある。皆かしこくなりたさすぎね。

美の世界は恐ろしく、底なしでもある。賢く無いので、魅入られてます(笑)。
多分、ずっとそうなんだろうな~~私。